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少数意見の尊重と強行採決

 小学校で民主主義について習ったとき「少数意見の尊重」という言葉が出てきた。それが大事だろうということは理解できたのだけれど、実際には多数決で決議するわけで、具体的に何をどう尊重するのだろう、という疑問が生じ、長いこと消えなかった。
 自分なりの結論を得たのは30代後半か、いや、40代になってからかもしれない。なかなか難しい問題だ。
 2015年7月15日の衆院平和安全法制特別委員会における強行採決を見て、「少数意見の側のふるまい」について少々感ずることがあったので、まとめてみた。

 政治的意志決定において重要なのは、「Aを取るかBを取るか」ではないと考えている。「Aを取ればBを捨てることになる」「Bを取ればAを捨てることになる」という条件の下で、「Bを捨てるか、Aを捨てるか」の判断が意志決定なのだろう。当然、AにもBにも、それを大切だと考える人たちがいるわけだから「捨てる」という意志決定には決断、リーダーシップといったものが必要になる。「AもBも(CもDも)八方が喜ぶ決定」などというのは、まあ、例外とすべきだろう。

 そう考えると「少数意見の尊重」の意味がわかってくる。
 Aを捨てるかBを捨てるかについて与党内で議論し、Bを捨ててAを取ることにし、法案をまとめた。その法案を国会(委員会)に提出すると、野党から、なぜBを捨てるのかという批判が出る。野党は与党と違う視点で責めてくるし、責任がない分「だったらAを捨てていいのか」という論点を無視して批判してくるかもしれない。
 そのときに、批判者の主張内容に敬意を持ち、「もしかしたら自分は判断を間違ったかも知れない」と謙虚に再考してもう一度AとBの軽重を判断し直す。これが「少数意見の尊重」だと私は考える。このプロセスを経ることで、まあ法案自体を取り下げるようなことは滅多にないとしても、その後の法運用に違いが出ることもあるだろうし、与党やリーダーも冷や汗をかく経験を通じて次の判断力を磨けるかもしれない。

 さて、関連して「強行採決」された野党側の取るべき振る舞いについて考えてみたい。きっかけは長谷川光洋氏の下記記事である:
現代ビジネス『プラカードを掲げるぐらいなら、議員辞職せよ 国民を裏切ったのは政府ではなくお粗末な野党だ』 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44226

 ただし上記記事には(不思議なことに)「プラカードを掲げ」た写真が出ていないので、日経の記事『安保法案、衆院特別委で可決 与党単独に反発』( http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS15H0F_V10C15A7MM0000/ )から、下に写真を拝借する。
150802pic01


 このシーンについて、長谷川氏は「プラカードを掲げるぐらいなら、議員辞職せよ」と批判しているわけだが、その理由について「なかでも採決はもっとも重要な国会議員の仕事である。それをサボタージュするのは、自分を選んでくれた「国民に対する裏切り」にほかならない」と書いている。これを読んだからこそ、私は本稿を書いているわけだ。採決はもっとも重要な国会議員の仕事だろうか?

 私はそうは考えない。議場で議論することこそが、もっとも重要な仕事だと考えている。これは上に書いた少数意見に関する論点に通じる。
 与党が圧倒的多数を擁し造反もほとんど期待できないことは政治の現場にいればわかることであろうから、その状況下で採決することが「もっとも重要」とは思えない。
 多くの場合、採決で負けが見えた野党の側にそれほど強く反対するモチベーションはないし、与党にも強行採決する必要性はない。強行採決が生じるのは票数に明確な差があり、かつ相違点の重要性や、議員が背負っている有権者の意見の重みが大きい場合だ。
 ところで、選挙は議員を選ぶ行為であり、個別の政策を選ぶわけではない。前回の衆議院選挙では安倍政権の経済政策が注目され、安保政策は大きな論点にならなかった。したがって、安保法案に対する有権者の批判が強いと感じた野党議員が国会審議を通じて強く批判したのは当然である。一方、アメリカで法案成立を「公約」した首相には少数意見に耳を傾ける意志が初めからなかったのだろう(参考1)。

 そして、強行採決である。有権者の支持に自信を持つ野党が何らかの形で抗議の姿勢を見せるのは当然だと私は考える。議論を尽くした上での採決ではなく、聞く耳を持たない与党が満足な議論もせずに採決を強行した(議会のルール上それは可能だ)ことを国民にアピールすることは、「もっとも重要」ではないけれど議員の仕事の一つだと私は考える。
 問題はそのアピールの方法だ。
 これまでの強行採決の歴史(民主党政権時代も当然含めて)を考えると、どうしても暴力的な印象がぬぐえない。委員長がぼろぼろにされたシーンを何度も見ている気がする(本稿でこの部分のウラは取っていません)。

 ここで一旦、昔話しを少々。

 私は1961年生まれであり、70年安保闘争を見たのは9歳の時ということになる。浅間山荘事件なども強く印象に残っている。あの頃の学生反乱は日本だけの出来事ではなく、欧州やアメリカにもあったようだ。
 子どもの頃にそういう闘争や事件をニュースで見て育ち、その後の政治的変遷も見てきた私は、いや、私たちの世代で市民運動に関わっている多くの人は「石を投げても政治は変えられない」という印象を強く植え付けられたのではないかと思っている。
 80年代に入って私たちが市民運動に入り始めた頃、「非暴力直接行動」という方法論が入ってきた(残念ですが日本発ではなく、輸入品として)。これにはさまざまな具体的方法が開発されている。

 さて、件の強行採決に話しを戻す。
 私が見た限りにおいて、あのときの野党の抵抗手段はまさに「非暴力直接行動」の範疇だと感じた。いや、単に「感じた」だけでなく、市民運動が80年代から培ってきた方法論が国会内に持ち込まれたという感慨を持った。
 ただし、動画を丁寧に見たわけではないのでどこかに暴力的な行為があったかもしれない。「委員長が持っていた進行メモを野党議員がうばった」という報道を目にした記憶があるので、それが暴力に当たるかどうかの議論は今後必要かもしれない。
 「プラカードによる反対の意思表示」は典型的な非暴力直接行動の方法である。しかも、議員がデザインしたプラカードではなく、抗議行動に参加する有権者がデザインしたプラカードを議員が国会内に持ち込んでいる。80年代から市民運動を続けている私にとって、とても新鮮で感動的な場面だった。すでに国会外で何度もデモを展開した有権者がいるという状況下で、そのプラカードを国会内に持ち込むことは、そのような有権者の意志を代議士たる自分たちが国会で表明しているというとてもわかりやすい民主主義の方法論だろう。非暴力直接行動においてはわかりやすさが重要だが、今回の野党議員の行動は、最低限の予備知識があれば世界中の民主主義国家で理解される方法論だったのではないか。

 選挙での投票は民主主義を支える手法の一つに過ぎないことは常識だろう。
 個々の政策に対するさまざまな民主主義的手法が開発され定着することは、民主主義国家日本の政治を安定的に発展させるうえでとても大切だと私は考える。


(参考1)
たとえば、星条旗新聞にこんな記事が出ている:
"US defense budget already counting on Japan self-defense plan"
http://www.stripes.com/news/pacific/us-defense-budget-already-counting-on-japan-self-defense-plan-1.346012

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