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エントロピー概念でエネルギー問題を分析する場合に2つの視座がある

 エネルギー問題あるいは資源問題を考える際、エントロピー概念、あるいは熱力学第二法則を持ち出して「エネルギーの質」を問うことは大切だ。日本では槌田敦氏が早い時期に問題提起しているけれど、第二法則は熱力学の基本法則であり、エントロピーは基本的な量であって、資源問題にその考え方を適用することは、誰もが考えるべきあたりまえの知的作業だ。
 そしてこの知的作業をよく見てみると、実は2つのはっきり異なった視座があることがわかる。ここに注意しないと議論が混乱するので、簡単に整理しておく。

 わかりやすい題材として下記のライブドアニュース記事を取り上げる。(もしかしたらいずれリンクが切れるかもしれず、そうなったらどうするかはあらためて考える)
http://news.livedoor.com/article/detail/7527583/?_from=tw

 記事の見出しは『武田邦彦氏が「石油はあと8000年は大丈夫」というその根拠は』。「地球が誕生したときには空気の95%がCO2だった」としたうえで、その炭素を生物が固定し、それが石油に変化したわけだから「炭素の量を計算すれば、どれだけ石油があるか、大まかな総量がわかってしまう」と主張して、「いまのペースで消費しても、あと8000年は大丈夫なのです」と結論づけている。

 どっちみちおおまかに全体像を把握するのが目的なので、細かいことは無視して以下の議論を進める。
 つまり、「40数億年前に大気中に存在した炭素の大部分が、生物の作用で有機物として固定され、その大部分が地中にさまざまな形で存在している(石油だけでなく石炭やガス、あるいは燃料として使いづらい形態も含めて)」という点までは、大まかな全体像として正しい、としよう。また、固定された炭素の大部分は、量を集めれば燃料として充分使える物質(石炭のような炭素や、石油・ガスのような炭化水素、あるいはバイオマスとして燃料か可能な有機物など)として存在しているとしよう。

 そして、上記「武田邦彦氏の主張」をエントロピーあるいは熱力学第二法則を用いて批判するとき、大きく2つの視座があることがわかるのである。
 第一の視座は、資源のエントロピー的価値、とでも言うべきものである。上で仮定したとおり「量を集めれば燃料として充分使える物質」だとしても、その大部分は広く薄く、また多種の化合物として拡散しているだろう。したがって「同一種を大量に集める」こと自体にコスト(エネルギーコスト、金銭的コスト、あるいは代償としての大量のエントロピー生成)を必要とするので、資源として価値がない、と批判することができる。

 第二の視座は、エネルギー資源を利用する過程全体を熱機関モデルで、第二法則を意識しながら分析するという考え方だ。もし仮に拡散した炭素資源を集めることができ、燃料として利用できたと仮定すると、すべて燃焼させれば大気中の二酸化炭素濃度が45億年前に戻り、95%になることになる。このような状態で人類は生存できるだろうか?全量と言わず、おそらく10%も燃焼させれば地表環境は激変するだろうし、酸素濃度が低下し燃焼効率も大きく下がることになろう(燃焼が有効エネルギーをもたらすのは、酸素リッチな環境だからである)。
 私たちはとかく排出側を見落としがちなので、この視座に立ってシステム全体を見渡すことが大切であろう。

 この二つの視座の相違は、今日のエネルギー・環境問題の議論でもはっきりあらわれている。化石資源の質を問う議論、たとえば在来型原油と比べてオイルサンドやシェールオイルの質の低さ(エントロピーの大きさ)を問題にする議論は第一の視座に立ったものといえる。一方、地球温暖化問題、つまり炭素系燃料の燃焼で生じた二酸化炭素が地表系でどこに蓄積しどういう影響をもたらすかを重視する議論は第二の視座に立つものといっていいだろう。
 
 予断になるが、槌田敦氏の主張を聞いて不思議に思うのは、エントロピーを持ち出し資源の質を問う(第一の視座)ことに熱心なのに、どういうわけか地球温暖化(第二の視座)を問題にしないことである。

 熱力学第二法則に立脚すれば、第一の視座も第二の視座もともに重要なのだから、バランス良く考えることが必要だろう。

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コメント

エントロピーは熱力学概念なので、無視できないのは確かなのですが、私はこの手のはなしをする時にいつも思う事があります。
いかんせん、一般にはイメージし難いので、専門用語の魅惑に煙にまかれつつ、なんとなく面白い感じになってるパターンが多い。

一つは、「熱力学第二法則」=「エントロピー増大の法則」をエモーショナルに取り上げるパターン。
曰く、(A)「誰も自然の摂理たるエントロピー増大の法則を逃れることはできない」、(B)「全てのプロセスは不可逆なエントロピー増大則に従い、質的な悪化を免れることは出来ず、多くの人はその本質を理解していない」うんぬんかんぬん。
(A)のような議論は、「人間対自然」という世界観を自省的に持っている人たちにとってとても興味ある話でしょうし、(B)のようにそうした「摂理」が我々が見逃している事だという主張もそうだと思います。でも、第二法則はあくまで閉鎖系でしか成立しないですし、経験則から導かれた現代熱力学理論体系の前提の一つにすぎず(たとえ覆る物理現象がみつかったとしても我々の生活に影響はないでしょうが)、魅惑的である事と冷静な物理の議論は切り分けた方がよいと思います。つまり、自然の摂理なんてものが実在するかどうかは置いておいておけば、(A)の主張内容は概ね正しいですが、世の中でエネルギーの考察の対象になるのはエネルギーや物質の出入りが激しくある事が殆どで、熱力学第二法則が適用される場面なんてほぼないので、実生活上は(A)は何も言っていないのに等しいと思います。(B)の主張は、多くの人が質的な問題を理解していないというのはそうかもしれませんが、「全てのプロセス」という箇所は、「特殊な条件下では」の間違いになるでしょう。系内の仮想部分では第二法則は擬似的に成立していても、全体としては意味が無い。基礎概念は重要ですが、実際上はまた別というのと同じでしょう。足し算や掛け算で、結合法則や分配法則は本質的な問題ですが、計算を生業にする人でそれを気にする人はいません。
第二法則の言っているような、盛者必衰の理のような定式(=主張)は、アナロジーとしてはいいですが、実際に物理法則が適用されるかの物言いは、私はいかがなものかと思います。第二法則に着想を得たという意味においてのみ言及が許されるのではないでしょうか。

もう一つは、物理的にはもう一段まともなのですが、「エントロピー」の概念を議論に取り入れる場合です。この場合、エネルギーの質を区別するためにそれぞれのエネルギー形態のエントロピーを重視します。エントロピーはエネルギーの次元ではないので、実用上は現実的な気温・気圧、作動条件などを設定した上で「エクセルギー」(=その系から取り出せるエネルギー量)や、「エクセルギー率」(=その系の持つエネルギーの中で取り出せる量の割合)で議論した方が分かりやすいのですが、なぜか「エントロピー」という概念に固執する人がいます。私は、こうした議論において「エントロピー」という概念の魅惑的な部分以上の意味があるのかどうかは甚だ疑問です。

エネルギーの形態には、熱、力学、化学、電気(概ねこの順番で高エントロピーなエネルギー形態から低エントロピーなエネルギー形態)など様々あって、低エントロピーであるほど「質は高い」と言うことはできますが、それは工学的な問題であって、人間が使う場合は総合的な利便性が効いてくるので、必ずしも低エントロピーであれば「人間にとって質が高い」とはいえません。そうした効用を測るには、価格しか方法はなくて、例えば熱量単位あたりの価格が高い方がより有用という事になりますが、それはエントロピーと直接関係があるわけではありません(低エントロピー資源を安く買って高エントロピーエネルギーを高く売るので、むしろ逆転している?)。

武田先生の議論は、むしろ武田先生の方にこそコストや需要を無視するという「カラクリ」があるわけで、「海水があるから水不足はありえない」と言っているのと同じですよね。私にはエントロピーの概念を持ち込む意義は見いだせません。確かに、拡散過程は熱理学的な現象でエントロピー増加を伴っていますが、油田や河川など自然凝縮したものを我々は資源と呼んでいるわけで。でも、コスト度外視でも取り出すことはありえます。

気候変動までエントロピーかといわれると私にはちょっとよく分からないです。

言いたいのは、根底にあるのは人間側の欲望という評価基準があるので、工学的に議論できるのはプロセスの部分だけで、社会現象の本質を工学的に扱おうとすると、うまくいかないのではないか、ということです。そんなことをちょっと思いましたので。

投稿: ぬり | 2013.03.27 11:28

 コメントありがとうございます。
 おっしゃるとおりで、私が「エントロピー」という言葉を使う場合には比喩的、イメージ的側面を込めています。そのことが悪いとは考えていなくて、ただ、議論の深まりに応じて、より正確な概念に切り替えていけば良いと思うのです。

 本稿の目的はエントロピー概念を用いて武田先生を批判することではなく、武田先生に対する2つの批判、すなわちエネルギーの質に関わる批判と、エネルギー使用に伴う排出物に関わる批判の2つがすでに書かれている(前者はぬりさんや末永さん、後者は私)という状況下で、この2つの批判を統合的に論じることで、エネルギー問題に関する第二法則的(エントロピー的)アプローチの意義を明らかにする、そういった目的で書いたものです。

 「そうした効用を測るには、価格しか方法はなくて」という部分は、経済学的方法論への無批判に過ぎる面があると思います。エコノミストの主張は「貨幣価値で計れる価値は貨幣価値で計れる」というトートロジーに依拠している面があるのではないでしょうか。
 とくに資源や環境を問題にする際は、低エントロピー性が適切に価格に反映されないのは価格メカニズムの欠陥である、といった類いの視点を常に持っておく必要があるかと思います。
 もちろん、固体燃料と液体燃料のハンドリング特性のように、エントロピーで説明できない(もしかしたらできる?)資源的価値も当然あるわけですが。

 あと(A)(B)で分類されている周辺の議論ですが、私は(A)や(B)にはとくに関心はありません。
 資源・環境を議論する際に重要な一つのポイントは、地表系を定常開放形モデルで認識することだと考えています。つまり、流入するエネルギー量と流出する量がバランスしている、という第一法則的な要件と、地表系での時間あたりエントロピー(エネルギー流入に伴い流入した量を含む)発生量と、エネルギー流出による時間あたりエントロピー排出量がバランスしている、という第二法則的要件です。
 そして、エネルギーに置き換えられない排出物が地表系内に蓄積し続ける場合、それに伴う悪影響にも注意が必要だ、という点も、第二法則に派生する注意点として意識する必要があると考えています。この点は、本当の意味で第二法則かと言われると怪しい部分であって、それがぬりさんの「気候変動までエントロピーかといわれると私にはちょっとよく分からないです」という発言につながったのだと思います。第二法則と直接関係ない、と言われてしまえばそれまでです。

 「工学的に議論できるのはプロセスの部分だけで、社会現象の本質を工学的に扱おうとすると、うまくいかないのではないか」という点は同意。だからこそ「理学的」に見ようとしている、とでも言いましょうか。
 工学の人はどうしても狭い部分にとらわれがちなので、「資源・環境を考える上で私たちが認識すべき系全体をまず適切に捉えましょう」という主張をしているつもりです。
 なお、「根底にあるのは人間側の欲望という評価基準がある」には賛成しかねます。人間の欲望はさして評価基準にならないと考えています。これについては、別の文脈で別の機会に議論させていただけたら、と考えます。

 あと、エクセルギーについては、多分同じような意見を持っています(今回の文脈では出てきていませんが)。エントロピーは、全体を大ぐくりにする際に定性的に持ち出すのには向いていますが、個別具体的な資源利用の場面に定量的に当てはめるのはかなり難しいと思います。
 個別のエネルギー評価では、場面に応じて、エネルギー・エンタルピー・エクセルギー等々を使い分けるのが適当でしょう。

投稿: dai(本人) | 2013.03.27 13:19

引用していただいているので、私もコメントしておきます。
この記事は科学的には正しいことのみで記述されています。しかしこの記事が大嘘であるポイントはただ一点の多義的記述「あと8000年は大丈夫なのです」の部分です。
このフレーズは単一のfactを述べているに見えて、実は3つの論理的には独立したfactsを関連づけて認識させています。すなわち「1.原始大気に含まれていた炭素量は8000年分の石油を生成できる量に相当する」→「2.原始大気に含まれていた炭素から8000年分の石油が生成された」→「3.8000年分の石油が採掘可能である」。1.と2.は数字の誤差1ケタ以内程度で正確であろうと推測されますが、2から3は明らかに論理の飛躍です。ですから、「2であるから3である」というのは間違いである、つまり、8000年分の石油が生成されたとしても、8000年分の石油が採掘・使用可能なわけではない、ということを指摘しました。
そういう意味では、8000年分の石油を消費すれば、大気組成が原始大気に戻ってしまう、という反論は、上記の論理のウソを批判することなく、正しいと仮定すればこんな変なことが起こる、という反論にすぎず、本質論ではないと思います。
それ以上に、本来の問題点である、論理の破たんの部分の正誤を問うことなく異なる論点で議論することで、論理破たんを覆い隠してしまい、論点をぼやかして結果的に、武田氏のウソをサポートしてしまうという点で、適切な反論ではないと思っています。
熱力学第二法則は比喩的に使いやすいので、そちらの議論の方が「面白い」のです。しかしぬりさんもおっしゃっているとおり、熱力学第二法則はあくまで閉鎖系で成り立つと考えられている法則であり、閉鎖系ではない地球上の環境にそのまま持ってくることは論点の拡散を招くだけで生産的ではないと思います。
例えば、私が武田氏であれば、地球環境は閉鎖系ではないので、太陽と宇宙空間の熱エネルギー差を使った解決、例えば使った太陽光エネルギーを使用して炭素を固定するシステムが構築可能で、炭素固定で石油が再生できれば一石二鳥など、どんどん論点を拡散させ、議論をはぐらかすことができてしまいます。
私の見解は、長期的なエネルギー問題の解決を考える際に、熱力学第二法則的アプローチは、知的な遊びとして面白くはあるが、問題解決につながる本質的なポイントではない、というものです。

投稿: ひろ | 2013.03.27 23:31

 ひろさん、コメントありがとうございます。少し考えてから返信しようと思ったら、だいぶ遅くなってしまいました、
 ご指摘の点の前半は、多分議論がかみ合っていなくて、本質的でも無いと思うのでとりあえず省略します。
 ひろさんがお書きになった「長期的なエネルギー問題の解決を考える際に、、問題解決につながる本質的なポイント」は何かという点について、私見を書きます。

 本質に接近するには、そもそも「資源」とは何か、を考える必要があるというのが私の出発点です。そして熱機関モデルの定常系として私たちの系を考えたとき、物質・エネルギーの供給元と排出先の両方が揃って初めて価値を生み出すことができるわけです。
 ここでは排出先を「環境容量」と呼ぶことにしましょう。資源と環境容量の両方が揃って初めて価値を生むのであり、両者を同程度の重さで評価する必要がある、これが私の考えです。
 そしてこのことを法則化したのが熱力学第二法則だということになります。また、環境容量に対して排出しなければならない量を示す物理量がエントロピーと言うことになる。
 1983年にエントロピー学会を設立したとき(うわ、もう30年になる!)の問題意識はそういうものでした(エントロピー学会HPは)。この問題意識が、とかく供給元の資源にばかり目を奪われがちだけれど、排出先の環境容量にも同様の目配りが必要だという社会的主張につながるわけです。

 たとえば、炭素系燃料を地下から掘り出すことばかりに目を奪われがちだが、燃焼させて生じた二酸化炭素が環境容量を超えれば地表系の定常性が損なわれる(温暖化)ことも重視し、環境容量が「資源制約」の一面だと理解すべきという主張です。
 ただし、二酸化炭素が地球温暖化を引き起こすのは電磁波の吸収波長という物性によるものであり、エントロピーが溜まったことに起因するわけではないという批判は全くその通りで、その意味で私がエントロピーという言葉を「この場面で」使っているのは、比喩的意味、すなわち資源と環境容量の両面を同じ重さで見るべきと言う主張のラベリングだということになります。
 エントロピー概念が社会現象を「安易に説明する道具」(エントロピー学会設立趣意書)とされることを批判した割にはずいぶんお気楽ではないか、と言われると返答に詰まってしまいます。

 ということで、エントロピーという言葉を安直に使っている、というご批判は正当だと思いますが、資源と環境容量の両方を同じ重さで論ずる必要がある、という趣旨に関しては譲るつもりはありません。
 件の武田氏の論調が供給側しか見ていなかったので、「排出が我から見るとこれだけばかばかしい主張ですよ」と示したまで。

投稿: dai(本人) | 2013.04.19 08:55

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