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ストック・フロー分析による資源論

 資源制約についてこれまでたびたび触れてきた。その「制約」の意味について、ここで整理しておこう。資源一般について言えることだが、エネルギー資源を題材にして考えることにする。

 エネルギー資源を「枯渇性資源」(化石燃料・核燃料)と「再生可能資源」(再生可能エネルギー)に分類し、それぞれに対するストック制約とフロー制約を示したのが下の表である。





 ストック制約
(入口・出口)
フロー制約
枯渇性資源制約される
(有限)
制約されない
(無制限)
再生可能資源制約されない
(無限)
制約される
(有限)

 まず、ストック制約の「入口・出口」から説明しよう。これは主として枯渇性資源にかかわる問題で、「入口」というのは埋蔵量、「出口」というのは廃物の捨て場所を示す。
 化石燃料(石油・石炭・天然ガス)であれば、埋蔵量の有限性に起因する制約(たとえばオイルピーク)が入口側の有限性を示し、大気中のCO2濃度上昇は出口側の有限性を示している。核燃料については、核燃料サイクルを確立すれば入口側の有限性は問題にならなくなるという主張があり、また出口側についても核廃棄物の処分場に困ることはないという主張もある。しかし私は、少なくとも最終処分場の適地を国内に見いだすことは不可能だと考えるし、世界的にいっても難しいと考えている。
 一方、枯渇性資源はフローに関して無制限である。これは、油田や鉱山に充分な投資を行えば、年間の産出量[トン/年]をいくらでも大きくすることが可能だ、という意味である。逆の言い方をすれば、有限の埋蔵量をいくらでも短時間で掘り出すことができる、と言ってもよい。
 もちろん、現実にはさまざまな制約が存在するので無限に大きくすることはあり得ないが、資源の性質を定性的に説明するうえではこの表現でよろしかろうと考える。

 次に、再生可能資源については、ストックは無限である。もちろん太陽も、地中の放射性物質も、地球の自転の慣性エネルギーも有限であるから、日射に起因するエネルギー(大部分の再生可能エネルギー)も、地熱も、潮汐エネルギーも有限ではあるが、人類にとっての現実的時間尺度で考えれば無限と言って問題ないし、そもそも太陽の寿命はエネルギーだけの問題ではない。
 その一方、再生可能エネルギーのフローは有限だ。一定範囲で獲得できる日射・風・水流などの量は物理的に制約されている。バイオマスのように、許されるフローを一時的に上回ることが可能である代わり、それによって生産基盤(たとえば森林)が破壊されることで長期的にはかえってフローが減少するような性質の資源もあることを付言しておく。

 表の読み方はここまでとし、次にこの表から私たちが読み取るべき意味を考えよう。
 まず注目すべきは枯渇性資源のフローが無制限、という点だ。私は、このことが現代社会の構造(とくに経済)を決定づけたと考えている。富みをフローの量(たとえばGDP)[円/年]で定義し、投資を行うことでフローを大きくすることが冨の増大になるという経済モデルである。
 産業革命の初期は水力・薪(再生可能エネルギー)が主たるエネルギー源であったが、その後石炭、そして現在では石油が主役となっている。したがって上記経済モデルは石炭時代以降の社会で成立したものである。

 私が「資源制約の時代」という言葉を使うとき、この言葉は「枯渇性資源のストック制約が顕在化した時代状況」を意味する。この状況では物的フロー[トン/年]を増大させることができなくなり、それどころか「身の丈」にあったところまで減少させなければならないことになる。
 この状況のもとでこれまでの経済モデルを持続することは可能であろうか?
 理論的には不可能ではない。[トン/年]が増大しなくなり減少させなければならなくなったとしても、トンと円を切離すことで[円/年]を増大させ続ければよいわけだから。経済学者やエコノミストとの議論はたいへんなので、この話はこのポイントで打ちきることにしている。「どうぞがんばって円とトンを切離してください」という言葉を最後にして。
 一方、私自身は、そしてエコロジーや緑を口にする多くの人たちは、円とトンを完全に切離せるとは考えていない。したがって、遠からず[円/年]を定常化せざるを得ず、おそらく減少することも視野に入れる必要があると考えている。
 そのような新しい経済モデルの必要性について、私が最初に呼んだのはシューマッハである(『人間復興の経済』、斎藤志郎訳、佑学社、だったと思う)。「仏教の経済学もありじゃないか?」といったようなことも書いてあったと記憶している。
 その後、多くの緑色の人が経済モデルについてさまざまなことを主張しているが、異なった状況に対してほぼ同じモデルを提起しているのだ、あるいは提起する必要がある、と私は考えている。つまり
①入口側の資源制約(たとえば石油危機やオイルピーク)に対応して;
②出口側の資源制約(たとえば地球温暖化)に対応して;
③もっと理念的に地球の循環の範囲で生きるべきだという哲学に依拠して;
フローを一定にした(かつ、少なくとも[トン/年]は今より減少させた)経済モデルを構築しなければならない、ということである。そしておそらく、そこでは[円/年]も今より小さくなると予想している。

 ストックとフローの表は、このような形で新しい時代を私たちに見せてくれる。

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コメント

 ほんとにまあ、石油ショック直後の日本人も結構③の理念の志向性を持っていたはずなんですが、どうして忘れちゃったんでしょうねえ。

投稿: SGW | 2007.09.03 20:49

構造改善事業(今は農業農村何とか事業)の批判を長年口にしています。その一方で農業用水の維持と活用を訴えており、農業土木の技術者にも親しい人がいます。
その友人に先日ちょっとツッコミを入れました。干潟は重要な海辺生態系であり、諌早湾の干拓はおかしいと。
それに対する彼の答えは、200年・300年すればまた新たな干潟ができるかもしれないじゃないか、というものでした。それに賛成するつもりはありませんが、数百年単位で考える土木技術者の発想それ自体は新たな発見であり、頼もしいと感じるものでした。
河川の土木技術者出身である竹村公太郎さんの『幸福な文明』(PHP)にも同じような時間スケールを感じます。
日本の河川には実は人工的に河道を定められたものが多数あるのでは、という話もありますし、農業用水には千年という歴史が珍しくない。
数百年単位で考える土木技術者がいるということは、とても頼もしいことではないかと考えています。

時間、というモノサシについて深く考えるべきところでしょう。

投稿: dai | 2007.09.03 22:32

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